意外とややこしい!奈良時代の政治について
こんにちは!ユウです。
今回は
について紹介します。
「様々な人が出てきて
複雑だな」
「交互に入れ替わってて
難しいな」
なんて思ったことありませんか?
この記事を読まないと
小テストがあると予告され
内容が頭に入ってなくて
この人何した人となり
小テストの時に
クラスメイトや友達は
10点近い点数を取っている
自分だけ
人には見せるのが
恥ずかしい点数を取り
自分だけ点数が低く
先生から
「なんで君はできないの」
と言われて
友達からは
「のび太と一緒やん」
とバカにされて
学校に行きたくなくなる
小テストで失敗して
定期考査でも
赤点ギリギリで
模試でも
最低点を取り
偏差値も40以下
とネガティブになり
受験当日まで
モチベーションが上がらず
そのまま点数が取れずに
終わってしまう
クラスメイトや友達は
高得点を叩き出して
志望校に合格し
笑いを抑えきれない
自分だけ
という気持ちになり
浪人して
周りも物凄く
意識が高くて1点差
不合格した人たちばかりで
ここでも
レベルの違いの差を
見せつけられて
やる気がおきず
と現実逃避をして
後悔ばかりする
『あの時ああしてれば 』
と思うことでしょう。
この記事を読めば
小テストがあると言われても
内容が頭に入り
小テストでも
友達やクラスメイトと
同じような点数を取り
友達と
「今日は何点やった?」
「9点やったよ」
「俺は満点」
「くそ、負けた」
みたいなことで
競い合うことができ
切磋琢磨して
定期考査でも
クラスの中で
先生から
「まさか君が取るとは
思ってなかった」
と言われて
また次も取れるように
やる気が出て
モチベーションも上がり
受験当日
最高な状態で受けて
3問ミスしかせず
友達と一緒に
合格した写真を撮って
最初はダメだったけど
ギプアップせずに
取り組めてよかったと
内容に入っていくと
まず最初は
大宝律令を完成させて
律令制度の政治の仕組み
を整えたこと。
不比等は娘の宮子を
文武天皇に嫁がせた。
文武天皇の子の皇太子
(のちの聖武天皇)にも
娘の光明子を嫁がせて
天皇と密接な関係になった。
不比等が死去すると
長屋王が政権を握った。
しかし、藤原氏の四子が
長屋王がうざくて仕方がなく
聖武天皇に嘘をついて
長屋王を自害させた。
このことを
長屋王の変(729)
という。
長屋王が死去すると
藤原氏の4兄弟の1人
武智麻呂が
太政大臣となるが
藤原の4兄弟は
天然痘を患い死去し
かわって橘諸兄が
政権を握る。
橘諸兄政権の時に
藤原広嗣が反乱を起こす。
これを藤原広嗣の乱という
740年に起きた出来事
藤原広嗣の乱の後
741年国分寺建立の詔を発布
743年 近江 紫香楽宮で
大仏造立の詔を出した
745年平城京に戻る
と結び勢力を伸ばす。
反乱を起こす
橘奈良麻呂の変という
仲麻呂は
淳仁天皇を擁立し即位させる
恵美押勝の名をもらう
太政大臣にまでのぼる
光明皇太后が死去し
仲麻呂が後ろ盾を失い
孤立を深める
道鏡を寵愛して
淳仁天皇と対立
恵美押勝は
危機感を募らせて挙兵
764年 恵美押勝の乱
淳仁天皇→淡路に流される
法王となって権力を握る
769年
宇佐八幡信託事件
称徳天皇が
宇佐神宮の信託により
和気清麻呂らが
道鏡の即位を阻止させた。
死去すると
下野に追放
これが
奈良時代の政治
についてのことです。
この記事を読んだら
流れを理解してください
自分の言葉で
まとめてみてください
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